- トップ
- 企業情報


大正3年創業から100年、
地域と共に歩んできた私たちの物語
1914年(大正3年)の創業以来、「土木&生コン」の二つの事業を柱に成長してきた大分綜合建設。
創業者から祖父、息子、そして三代目の娘へと脈々と受け継がれてきた”土木一家の物語”をご紹介させてください。
一世紀以上にわたり、豊後高田市とともに歩んできた当社の軌跡です。


創業と基盤づくり
-
1914大正3年
-
-
「安藤組」創業
安藤伝吉氏が「安藤組」を創業。地域の建設を支える会社として最初の一歩を踏み出しました。大分県豊後高田市で土木工事を中心に事業を展開し、地域に根差した企業として着実に実績を積み重ねていきました。
-
-
1975昭和50年
-
-
「大分綜合建設株式会社」へ
安藤組の番頭を務めていた故・小拂勝会長(現社長の父)が安藤組を継承。「大分綜合建設株式会社」と社名を変更し、新しい時代へ向けて出発しました。土木事業の基盤を活かしながら、新たな挑戦へと踏み出す重要な転機となりました。
-

成長と挑戦の時代
-
1978昭和53年
-
-
全自動生コンプラント建設
生コン製造業を兼業化するため、日工株式会社製の全自動生コンプラントを建設。高度経済成長期の真っただ中、この先見性が会社の大きな飛躍につながりました。土木事業と生コン製造の二本柱で、地域のインフラ整備に貢献する体制が整いました。
「生コン需要は急拡大するはずだ」と、いち早く目をつけた先代の先見性により、会社は成長期へ突入しました。当時の生コンプラント建設は社運を賭けた大きな挑戦でした。資金に余裕がなかった時代に、反対を押し切ってお金をかき集めた先代の熱意と決断力が会社の未来を切り拓きました。
-
-
1980昭和55年
-
-
JIS規格取得と後継者のUターン
レディーミクストコンクリートの日本産業規格を取得し、公共工事への需要が拡大。同じ年、現社長が鹿島建設株式会社での勤務を経て故郷へ戻り、大分綜合建設の後継者となりました。根っからの「現場主義」は古希を迎えた今でも変わりません。
-
-
豊後高田市の「昭和の町」。この町並みの整備にも当社は深く関わり、メイン道路の建設、店舗の基礎となるコンクリートを提供してきました。現社長は地域に根差した企業活動を通じて、故郷の発展を願っています。
-
-
1992平成4年
-
-
新生コンプラント建設
自治体の公共工事発注増加に伴い、生コンの受注量も急増。社屋前には生コンを求めるミキサー車が長蛇の列をなし、目が回るほどの忙しさだったといいます。この激務を支えたのが、当社の女性社員たちでした。
生コンの製造業務には、JIS規格を順守する正確性や、お客様の要望を細かくくみ取る気配りが必要です。こうした能力に長けた「女性を積極的に採用する」という故・会長の先進的な考えにより、当社の製造業務は長年女性が担当し、今もその体制が続いています。令和の今、女性の社会進出は当たり前になりましたが、故・会長はそんな未来を先取りしていたのかもしれません。
-
持続可能な未来
-
2008平成20年
-
再生コンクリートへの取り組み
-
残コン・戻りコンステーション開設
お客様にご注文いただき配達した生コンの1~2%は余って工場に戻ってきます(残コン)。一般的には産業廃棄物として処分されますが、当社は約20年以上前から、残コンを再資源化し、再生コンクリートとして生まれ変わらせる取り組みを継続。SDGsの考え方が普及する遥か前から、環境負荷低減に取り組んできました。
-

未来への継承
-
2015平成27年
-
-
三代目がUターン
現社長の娘が後継者として故郷に戻り、生コン事業部の改革に着手。「高品質化」を目指し、社員の協力を得ながら原材料から全て見直し、従来品に比べさらに高品質な製品の提供が実現しました。
-
当社の主力商品である生コンは、文字通り”生もの”です。
日々、季節や天候で表情を変える原材料に向き合っていると、
単純な配合や数値では片付けられない問題が頻発します。
では、なぜうまくいかないのか?試行錯誤を繰り返すうちに行きついた1つの答えが
「気づかいも技術の一部」ということです。
私共は、全自動製造過程の中に「気づかい」をプラスして生コンを製造しています。
生コン製造は人間関係と同じです。生コンという”相手”の気持ちを的確にくみ取り
細やかな気づかいをすることが、他にはない高品質な生コン、
そしてサービスに繋がると信じています。
私共はこれからも高品質な生コンを通して、ここ豊後高田市の発展に貢献していきます。
小拂 智絵

創業110年を超えて
歴史ある当社の軌跡を知っていただき、ありがとうございます。
これからも地域とともに、新たな歴史を刻んでいきます。

